【前言】
齋藤一被會津接納後,從山口次郎改名換姓為藤田五郎,迎娶了會津藩士的女兒高木時尾,並低調度日。唯有和會津戰友聚在一起時,才會把酒幕末當時的回憶。傳說他留下一本名為「夢錄」的回憶錄,實際上卻未曾有人發現過。因此,我們只能從各個歷史事件和他人的回憶窺見齋藤一的各種面貌。
究竟齋藤一在眾人的回憶中是怎麼樣的人呢?
以下以翻譯機閱讀各路的史料和相關的齋藤一專書,加以整理。
無敵の剣
可能出處:《歴史と旅 織田信長 外国人宣教師の目がとらえた覇王の実像》(1992-03)的〈カラーセクション 新撰組発掘の旅(15)〈瀧上鐵男氏の話〉,作者:赤間倭子(pp. 208~213)
網路上盛傳永倉新八的弟子曾聽師傅給過沖田總司和齋藤一的評語如下:
「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣。」
經過一番搜查後,找到最有可能的出處與完整的句子應該長這樣:
永倉新八の遺談によれば斎藤一の剣は「無敵の剣」で、沖田総司のは「猛者の剣」という。
——摘自國會圖書館檢索結果:(1)、(2)
可惜手邊沒有相關書籍可以確認前後文,故這邊僅列出來供有興趣的同好參考。
精通擊劍,柔能制剛
出處1:中島登《戦友絵姿》(明治3年,1870)
出處2:菊地明《新選組組長 斎藤一》(2011)的〈二章 無口で眼光銳い剣の達人〉
中島登在慶應三年(1867)十月在江戶加入新選組。他在《戦友絵姿》上如此評價齋藤一:
……撃剣ヲ能クシ柔ニシテ能ク剛ヲ制スノ器アリ……
——摘自中島登的《戦友絵姿》……撃剣をよくし、柔にして、よく剛を制すの器あり……
——翻譯摘自菊地明的《新選組 組長・斎藤一》的〈二章 無口で眼光銳い剣の達人〉第23頁
截圖自戦友姿絵 | 市立函館博物館デジタルアーカイブ
https://hakohaku-archives.c.fun.ac.jp/records/S63-0020
中島登加入新選組時,齋藤一仍在御陵衛士當臥底,一個月後才返回新選組,並改名為山口二郎。而中島登從入隊到戊辰戰爭這段短短不到1年的時間內,可能見識到齋藤一的某些本事,讓他認為此人劍術高超,並且能以柔制剛。
在齋藤一的長孫藤田實曾聽見過祖父晚年模樣的人敘述「他身高挺拔、沉默寡言、眉毛濃密,目光炯炯有神,渾身散發著威嚴氣息。」然而,搭配中島登的「柔能制剛」的敘述,他覺得祖父應該有柔和的一面,能深思熟慮、抑制其他人過於衝動或自作主張的行為(參考:《臨時増刊・歴史と旅・新選組大特集》的〈わが祖父斎藤一〉第230頁)。
新選組中數一數二的劍客,且有殺伐癖
出處:西村兼文《新撰組始末記》(別名:壬生浪士始末記,明治22年,1889)
然而,西村兼文對齋藤一的評價多偏負面:
……齋藤ハ局中一二ノ劍客ニテ其上殺伐ノ癖アル者……
——摘自西村兼文的《新撰組始末記》(別名:壬生浪士始末記)的〈隊士亂暴附武田觀柳闇殺之事〉
西村兼文是支持勤皇的西本願寺的侍臣,但佐幕的新選組硬是把屯所從壬生村搬到西本願寺,又在人家的北集會所的柱子上留下刀痕、在寺院境內拷問敵人或發射大砲,打從一開始很難留下良好的印象。
此外,西村兼文和同樣尊皇攘夷派的御陵衛士的伊東甲子太郎交好,伊東甲子太郎最後卻慘遭新選組暗殺,想必對新選組的印象多半負面。因此,他在《新選組始末記》內不乏批判也不難理解。
不過,他仍肯定齋藤一是新選組數一數二的劍客。至於有無殺伐癖?那句評語後面僅接著簡短敘述齋藤一和篠原泰之進如何各一刀處決叛離的武田觀柳齋,並且齋藤一嘲笑武田不怎麼樣而已,甚至兩人回去路上交換心得:
竹田街路土橋(俗錢取橋)へ掛リタル頃ハ戌刻過ニテ往來絶ヘテ人カゲ見ヘズ是ヨリ以南竹田村ニ出本街道ニ掛リナバ往來繁ク手ヲ下スニ煩ラハシケレハ齋藤意ヲ決シ假橋ヲ渉ルヤ否拔打ニ武田ノ背後ヨリ大袈裟ニ切ル尋テ篠原モ一太刀切込ミタリ武田最初ノ深手ニ一言モナク即死ス齋藤カラ々々ト打笑ヒ武田ハ日頃ノ廣言程ニモナクモロキ奴ナリト其雙刀ヲ奪ヒ歸路互ヒニ心中ヲ明シ合ヒ
——摘自西村兼文的《新撰組始末記》(別名:壬生浪士始末記)的〈隊士亂暴附武田觀柳闇殺之事〉
竹田村に出、 本街道に掛りなば、往来繁く手を下すに煩わしければ、斎藤意を決し、仮橋を渉るや否、抜打に武田の背後より大袈裟に切る。尋で篠原も一太刀切込みたり。武田、最初の深手に一言もなく即死す。 斎藤カラカラと打笑い、武田は日頃の公言程にもなくもろき奴なりと、 其双刀を奪い、帰路互いに心中を明し合い。
——翻譯摘自新選組の日々(新暦) on X
在此須特別注意,肅清武田觀柳齋時,齋藤一和篠原泰之進已離開新選組、成為御陵衛士一員。時間點可能是西村兼文記錯。若日後有機會探討這塊,再另外發文提起。
至於御陵衛士對叛離的齋藤一的評語,請參考此篇:【新選組|御陵衛士】前同袍對齋藤一的回憶與評價
劍術實力順序:永倉新八>沖田總司>齋藤一
出處:伊東成郎《斎藤一 京都新選組四番隊組頭》(2022)的〈擊劍師範〉(阿部十郎的回憶)沖田総司、これがまア勇の一(番)弟子で、なかなかよく遣いました。その次は斎藤一と申します。それからこれは(流)派が違いまするけれども、永倉新八という者がおりました。この者は沖田よりはチト稽古が進んでいました。
——摘自伊東成郎氏在《斎藤一 京都新選組四番隊組頭》(2022)的〈擊劍師範〉第111頁引用的《史談会速記録》第83輯(明治32年,1899)
前御陵衛士 阿部信次郎(阿部十郎)的回想中,雖然沖田總司的劍術精湛,齋藤一其次,但不同流派的永倉新八更勝沖田總司一籌。
只懂劍術且對女人癡情,不懂何謂國家,也不懂勤王的義務
出處:赤間倭子《新選組・斎藤一の謎》的〈斎藤一(藤田五郎)の人生〉
(阿部十郎的回憶)私共同志の内、斎藤一郎という者がおりましたので、彼は『殉難録稿』には近藤が我々のところに密使にいれたように出ておりますが、これは決して左様ではございませぬ。斎藤一郎も全体唯剣術を使いますだけで、国家の何物たるやあるいは勤王の何物たるやを弁えぬ人間で、始終近藤勇についておったのでございます。
全体この人は女にのろい奴で、島原に自分の馴染の太夫がございまして、それが後に祇園 の芸者になりまして、祇園に参っておりました。その時分には、私共は高台寺におりましたから、それがために斎藤がその女にはまって逃亡を致しました。
……その折に伊 東甲子太郎が五十円の金の包を机の抽斗に入れておいて、我々はみな外出をしておらなかっ たのでございます。その留守に斎藤が五十円を持ち出して帰ってきませぬので、ところがそうこういう人間ですから、自分の女のところに行ってその金を使ってしまったものですから帰る ことが出来ませぬ。そこで近藤の方へ行って我々の密事を告げましたので……
——摘自赤間倭子在《新選組・斎藤一の謎》的〈斎藤一(藤田五郎)の人生〉第137-138頁引用的《史談会速記録》(明治25年,1892)
前御陵衛士阿部隆明(阿部十郎) 批判叛逃的齋藤一其實根本不懂國家和勤王大義,只懂劍術。實際上他才不是近藤勇的密使,而是為了女人才逃出御陵衛士。
他趁大夥不在,捲走伊東甲子太郎留在抽屜的五十円金。 五十円全花在那名祇園的藝者身上後無臉可歸,因此,跑去向近藤密告御陵衛士,導致伊東甲子太郎遭暗殺、御陵衛士瓦解。
比起篠原泰之進在〈秦林親日記〉只有特意用小字記錄齋藤一這個人「江戸人斎藤一、卯十一月十日出奔反腹シテ、終ニ同十八日夜同志ノ者ヲ暗殺シタリ」,阿部十郎僅認同齋藤一的劍術,瘋狂批判此人的人品糟糕,可見怨恨相當地深呢。
刀劍實戰的看法
(1)並非能輕易格開敵人的刀再還擊,而是陷入忘我的交鋒どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬り込んで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬り込んで行くなどという事は出来るものでなく、夢中になって斬り合うのです。
——摘自菊地明的《新選組組長 斎藤一》(2011)的〈闇鬥での激鬪.天満屋事件〉的「危機一髮」第155-156頁
菊地明氏引用子母澤寬的氏的《新選組遺聞》 。看起來應該是子母澤寬氏採訪山川健次郎(下媒人的弟弟),並寫進天滿屋事件(慶應3年12月7日)?這本書尚未電子化,故這邊僅列出供參考。
(2)無須擺架式,即高舉大上段斬擊,即斃命敵人
出處:伊東成郎《斎藤一 京都新選組四番隊組頭》(2022)的〈本郷真砂町に死す〉
刀を抜いて戦う場合は、剣術の場合のようには構えずに、大上段にふりかざして進めば、敵はもう斃れているものだ……
——摘自伊東成郎的《斎藤一 京都新選組四番隊組頭》的〈本郷真砂町に死す〉第228頁引用的〈父勝與の山川将軍に関する思い出〉的其中一段
伊東城郎氏引用今田二郎氏在《会津史談》第56號(1982)發表的〈父勝與の山川将軍に関する思い出〉,該文整理了父親今田勝與的口述。
這句話似乎在描述齋藤一與高木盛之輔(小舅子)、山川健二郎(下媒人的弟弟)話談戊辰戰爭之後?因為目前尚未有 《会津史談》第56號的電子書可參考,無法確定前後文。這裡僅供參考。
不畏懼子彈
出處:《陸軍記念日に於ける戦史講話》的〈黒溝臺及奉天会戦に於ける中隊長としての体験〉(昭和12年,1937),作者:藤田勉
私ノ父ハ鳥羽伏見會津ノ戰ニ参加シ母ハ若松城ニ三十日間籠城シ今ノ看護婦ノ様ナ仕事ヲシ共ニ弾丸ノ下ヲ潜ツタ者ナノデ私ハ幼少ノ時カラ戰争ヲ基準トシテ育テラレ飯ヲ食フニモ汁ヲカケル事サヘ絶體ニ禁ジラレテ居ツタシ家庭ニ於テ彈丸ガ恐ロシイト云フ話ヲ聞イタ事ハナカツタ。齋藤一的長子藤田勉氏回憶父母因在戰場上的槍林彈雨中生存下來,便以戰爭為基準對孩子施教,更不用說家裡的人曾有害怕子彈的發言。
——摘錄自《陸軍記念日に於ける戦史講話》的〈黒溝臺及奉天会戦に於ける中隊長としての体験〉第1頁,作者:藤田勉
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C19010218500
堅持士道
(1)「士道不覺悟!」「頭不可先行,腳必先踏出玄關」
出處:中村彰彦《新選組全史 戊辰・箱館編》(2015)的〈終章 明治を生きた元新選組隊士たち〉的「五つの名前を持つ男.斎藤一」
「士道不覺悟」成為齋藤一的名言的由來出自長孫藤田實氏對父親藤田勉氏的斯巴達式教育的回憶。回家時,若沒有閃過父親的突襲,就會被罵「士道不覺悟」。他們也被教導武士離開玄關時,頭不可先出去,要腳先踏出玄關,避免敵人斬擊頭部導致重傷;若只有腳部受傷,還可以在倒地時,從下方反擊敵人:
父の教育法はちょっと類のないやり方でしてね(略)、私たちが帰ってくると、突然躍り出て打ち込むんです。やられますよ、不意を突かれるんですから。すると「士道不覚悟ッ」とどなられる。これが年中ですからたまったもんじゃないんです。(略) 武士たる者は、玄関を出る時は頭から先に出るな、足から出よ。不意に斬りつけられた場合、頭をやられれば致命傷だが、足ならば倒れながらも相手を下から突き上げて殺すことができると常々いって聞かされたものでした。(林栄太郎・赤間倭子「斎藤 一(藤田五郎)の謎」 『共同研究新選組』)
——摘自中村彰彥在《新選組全史 戊辰・箱館編》的〈終章 明治を生きた元新選組隊士たち〉的「五つの名前を持つ男.斎藤一」引用《共同研究新選組》的林栄太郎・赤間倭子的〈斎藤 一(藤田五郎)の謎〉
後人藉由長孫的回憶,推論齋藤一可能將士道傳授長子勉的時候,也是如此地教導吧?「士道不覺悟」進而變成齋藤一的名言之一了。
(2)武士風範:認真清洗腰帶、從未邋遢、端正坐姿
出處: 《臨時増刊・歴史と旅・新選組大特集》(1980/01)的〈わが祖父斎藤一〉,作者:藤田實
祖父の日常は武人らしい振舞いに彩られておりまして、たとえば、下帯は毎日取り替えて、洗濯したもの、それも真白く洗ってのりをつけ、両掌ではさんでよくたたいて、しわを伸ばし、天日に干しあげるので、乾いた時はピンと、まるでアイロンでもかかっているみたいになっておりますものを使用いたして おりました。これはその頃の武士ならばあたり前の身だしなみでした。
そのほか、帯を結びますにも、必ずきちんと巻いて結び、決してぐるぐると結ばないで 身体にだらしなく巻きつけたり、どんなに暑い時でも肌をぬいだり、手拭を首に巻きつけたり、履物をはく場合でも、きちんとはき、指先につっかけて、ひきずって歩くなんてことは決して致しませんでした。
坐る時でも膝を揃えて正座いたしまして、決してあぐらをかいたり、横ずわりなどいたしません。それはそれはきちんとしておりま した。
——摘自《臨時増刊・歴史と旅・新選組大特集》的藤田實的〈わが祖父斎藤一〉第231頁
以上是家族的人告訴藤田實氏祖父生前的武士風範。如小標題所寫,齋藤一會認真清洗曬乾腰帶,讓它保持立挺且無皺褶。衣著不鬆垮邋遢,即使炎熱夏天,也不會隨意褪去衣物或手巾掛在脖子上。連穿鞋子時也保持端正,不隨意腳尖勾著斜走路。更不用說他平常坐姿端正,從不橫臥盤腿或橫臥。
(3)堅持正座到嚥下最後一口氣
出處1: 《歴史読本 子孫が語る幕末維新人物100》(1979/12)的〈時代とともに生きた剣客 斎藤一〉,作者:藤田實
出處2:《臨時増刊・歴史と旅・新選組大特集》(1980/01)的〈わが祖父斎藤一〉,作者:藤田實
祖父はどういうわけか自宅の床の間の上に坐って、正座して亡くなったのです。
こんなことを言いますと、何か作り話みた いに感じる人もいるかも知れませんが、本当の話なのです。昔はよく、剣客や、偉い人などは、床の間 に坐って死ぬことがあったそうです……
——摘自《歴史読本 子孫が語る幕末維新人物100》的藤田實的〈時代とともに生きた剣客 斎藤一〉第227頁
〈時代とともに生きた剣客 斎藤一〉簡略提到齋藤一在放裝飾的床之間正座去世,據說過去的劍客和偉人皆會以這種姿態去世。
而晚一個月刊行的〈わが祖父斎藤一〉(p. 233)則增加了細節。不只臨終時這件事是母親みどり氏告訴藤田實氏,還有祖父齋藤一要求將他移到床之間,臨終前,是みどり氏用布包著筷子尖端為他清理喉間的痰。最後,齋藤一以正座姿態迎向人生終點。
指揮人力車夫順利接送就讀女高校的千金們
出處:《歴史読本 子孫が語る幕末維新人物100》(1979/12)的〈時代とともに生きた剣客 斎藤一〉,作者:藤田實
当時、十歳位の子供の敬子様は、祖父をいかにもいかめしい武術に優れたおじいさんという感じでみておられ、晩年の祖父は女高師の校内取締りをやっており、雨の日など生徒をむかえにくるお抱え人力車の車夫たちが、うまく令嬢である生徒たちとゆき合えるように、校庭で巧みに指図していたそうです。
——摘自《歴史読本 子孫が語る幕末維新人物100》的藤田實的〈時代とともに生きた剣客 斎藤一〉第227頁
透過土田敬子氏約十歲的回憶,晚年的齋藤一是個很有威嚴、武術優異的老爺爺。他能在雨天巧妙指揮擠人力車夫,好讓他們順利接送在女高校念書的千金們。
文中的「女高校」指的是「東京女子高等師範學校」,1949年後併入新設的御茶水女子大學。土田敬子氏的父親高嶺秀夫是東京女子高等師範學校的校長,而齋藤一在他的任期擔任庶務兼會計(1899-1909)。
擅長鑑定刀劍真偽和保養刀劍
出處:赤間倭子《新選組副長助勤 齋藤一》(2022文庫化,初版為1974)
(藤田夏子氏的回憶)姑みどりの話によると、この方(高嶋秀夫)のお邸には立派な倉があって、そのなかに刀剣類、美術品など、ぎっしり詰っていまして、いつも錠が掛けられてありましたそうですが、五郎だけはひとり勝手に出入することを許されていて、刀剣の鑑定がうまかったせいか、よく目利きや、手入れなどを頼まれていたそうです。
——摘自赤間倭子的《新選組副長助勤 齋藤一》的〈涅槃〉第274頁
長孫媳婦根據婆婆みどり氏所言,齋藤一常常受邀去高嶺秀夫家的倉庫欣賞珍藏的刀劍和美術品,而且還得到特別允許獨自進出。可能因為擅長鑑定刀劍真偽,常常受託鑑定或保養的工作吧。
嗜酒的酒豪
出處1:《共同研究新選組》(1973)的〈斎藤一(藤田五郎)の謎〉,作者:林榮太郎.赤間倭子
出處2:《臨時増刊・歴史と旅・新選組大特集》(1980/01)的〈わが祖父斎藤一〉,作者:藤田實
出處3:《歴史読本 子孫が語る幕末維新人物100》(1979/12)的〈時代とともに生きた剣客 斎藤一〉,作者:藤田實
從國會圖書館找到網路上盛傳齋藤酒豪的相關敘述可知,齋藤一不只晚年酒量極大,在戰爭中燒毀的五升德利是他愛用的酒具:
(藤田實氏的)酒は大へん強く、私が子供の頃には祖父愛用の五升徳利が、床の間に飾ってあったものですが、戦災ですべて焼けました。
——摘錄自《共同研究新選組》(1973),參考國會圖書館檢索結果:(1)、(2)
當然,寡言高大的齋藤一愛好高嶺秀夫家的酒,時常到那走訪,也在年約10歲的土田敬子氏心中留下深刻的印象:
(土田敬子氏的回憶)私が藤田五郎さまにお会いしたのは、十歳位の頃で、その頃、よく私の実家高嶺秀夫家におあそびに来ておられました。御酒がお好きでいらっしゃいまして、よくおいでになると、御酒を差し上げておりました。大そう無口で、お背の高いやせた方で、 いかにもいかめしい、それらしいふうにお見受けいたしました。
——摘錄自《臨時増刊・歴史と旅・新選組大特集》的〈わが祖父斎藤一〉第232頁
當時只有長孫實的妻子夏子氏與齋藤一研究者赤間倭子氏一起採訪土田敬子氏——文中提及她已80歲高齡。最有可能的採訪年分,敝人估計約1978年的8月,原因如下:
- 〈わが祖父斎藤一〉(1980/1)的231頁提到是去年夏天到土田家採訪;
- 〈時代とともに生きた剣客〉(1979/12) 第227頁提到是去年8月;
- wiki上顯示,土田敬子氏生於1898年,在1978年(80歲)去世。
從土田敬子氏的回憶的10歲來看,齋藤一大約在1908年(明治41年)前後時常走訪高嶺家,當時的他已是60幾歲的老先生了。
對自家人話長戊辰戰爭
出處1:《臨時増刊・歴史と旅・新選組大特集》(1980/01)的〈わが祖父斎藤一〉,作者:藤田實
出處2:伊東成郎《斎藤一 京都新選組四番隊組頭》(2022)的〈本郷真砂町に死す〉
祖父は若い頃からお酒が好きで、いつも飲んでは、義弟の高木盛之輔や、山川健二郎さんなどと、戊辰の話をして、ヒフンコウガイするのが常だったそうで……
——摘自《歴史読本 子孫が語る幕末維新人物100》的藤田實的〈時代とともに生きた剣客 斎藤一〉第233頁
藤田五郎という人は新撰組で活躍した人ということですが、よく山川邸を訪れました……戦場統率の経験豊かな、眼光の鋭い人でありました……時々休みの日に来ては、酒を飲み、気焰をあげていたものです。齋藤一時常找山川浩(下媒人)、高木盛之輔(小舅子)、山川健二郎(山川浩的弟弟)一起喝酒話談戊辰戰爭;可見他和會津藩士的緊密關係。
——摘自伊東成郎的《斎藤一 京都新選組四番隊組頭》的〈本郷真砂町に死す〉第228頁引用的〈父勝與の山川将軍に関する思い出〉的其中一段
第二段為伊東城郎氏引用今田二郎氏在《会津史談》第56號(1982)發表的〈父勝與の山川将軍に関する思い出〉,該文整理了父親今田勝與的口述。
教導親族劍道
出處:赤間倭子《新選組副長助勤 齋藤一》(2002文庫化,初版為1974)
(小林栃子氏的回憶)親戚の男の子は皆この五郎伯父に剣道を教わりました。新選組に入っていたことは知っておりました。
——摘自赤間倭子的《新選組副長助勤 齋藤一》的〈あとがき〉第284頁
小林栃子氏是齋藤一的小舅子高木盛之輔的六女。據她所言,親戚中的男性的劍道都由齋藤一親自教導,大家也知道他曾是新選組一員。
希望埋葬之處
出處:伊東成郎《斎藤一 京都新選組四番隊組頭》(2002,初版為1974)的〈本郷真砂町に死す〉
阿弥陀寺の会津戊辰戦死者之墓の傍に俺は骨を埋めるのだ……
——摘自伊東成郎的《斎藤一 京都新選組四番隊組頭》的〈本郷真砂町に死す〉第228頁引用的〈父勝與の山川将軍に関する思い出〉的其中一句
至於齋藤一希望和並肩作戰的會津人一起埋葬的發言,亦出自今田二郎氏在《会津史談》第56號(1982)發表的〈父勝與の山川将軍に関する思い出〉,該文整理了父親今田勝與的口述。
【後記】
現在總算知道那些二創作品的齋藤一(藤田五郎)的性格的由來,是眾人辛勤爬資料後決定採用並發展成筆下的角色。讀起來萬分有意思。
以上的回憶皆來自他人,到底真實度有多少,僅有和齋藤一實際相處過的人可知了。畢竟每個人會收到的評語不同,甚至因為立場而得到兩極化的評價也有可能。
如果有發現文中沒有列出的評語,歡迎留言提出,敝人再去翻閱專書和搜尋網路,看看能否找到原始出處。在此先謝過了。
【參考資料】
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